「初恋のきた道」について

こんばんは。今日は、張芸謀が撮った1999年公開の映画「初恋のきた道」についてです。

この映画は、2000年のベルリン映画祭に出品され、銀熊賞を受賞しました。

僕のできる範囲で、書いていこうと思います。

 (1)静かな恋

主人公である少女を演じる、チャンツイーはある男を好きになります。少女は、自ら声をかけることもなく、ただ目線で追い、木々の隙間から覗き、大地を歩き、走り、家事を手伝います。そこには少女の純粋で美しい(恋)というものが描かれています。会話を交わすようになってからも、特別な言葉は存在せず、体が交わることもありません。

昨今のメロドラマ(思い浮かぶのは特に日本)と比較すると正反対に位置するこの映画には、壁ドンや無意味で下品なキス、胸キュン台詞は存在しません。

これらの演出から、作り手には映画や物事に対してなんの哲学も美学もなく、観客が隙間を埋める必要もなく、ただ存在していることをそのまま素っ裸な状態で捉えている、要するに下品である、ということが分かります。

もし仮に、その演出に対して哲学や美学があるのであれば、その演出は美しくありませんし、映画の感覚をお持ちではないんだろうなと僕は考えます。

(真実の恋、愛)というものは、とても静かな事柄のように僕は考えます。だからこそ、それに対して真摯に向き合い、それをそのまま映画にする。僕はこの映画から張芸謀は(恋)と(映画)というものに対してとても真摯に向き合っていると感じました。

しかし、そこで重要なのは、先に(恋)があってはいけないということです。撮りたい画面が先にあり、その延長線上に(恋)があるというのが大切で、それこそが映画だと考えます。(個人的な考えです。)ちなみに是枝は画面より先に社会というものがあると思います。

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(2)チャンツイーと広瀬すず

主演であるチャンは本作がデビュー作だったらしいです。初々しいとかなんとか言いたいとこですが、チャンに関してほとんど知りません。

初恋のきた道」のチャンは、映画の登場人物や演技という呪縛から解き放たれているように感じました。そこに存在していたのは、ただの田舎の少女であり、ただの恋する少女でした。なぜそのような現象が起きたのか。それは、役者自身の力量であり、何よりも張芸謀をはじめとする制作スタッフの力量だと僕は考えます。

そこで、比較してしまったのが「海街ダイアリー」のほぼ新人であった広瀬すずです。

是枝も役者に演技をさせないことのできる監督だと思いますが、海街の広瀬は違っているように感じました。広瀬の他の映画やドラマを観ても、彼女は演技をし過ぎています。演技に対して真摯に向き合っていることは伝わってきます。しかし、役というものには向き合えてないように感じます。それに加えて、広瀬は役に対して自分自身を持ち込んでいるようにも感じます。役者の本質というのは、完全に持論ですが、演技をすることではなく、役になりきるというより、役になることだと思います。そして、自分を役に持ち込むということは、例外なく、やってはならない行為だと考えます。自分の中に何かあるのであれば、映画を作っちゃえばいいんです。トリュフォーやたけしのように。

そういう意味で、チャン、制作スタッフたちの少女の演出は素晴らしいと言えます。

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(3)最後に

なぜ映画に哲学や美学が必要なのか。

なぜ先に画面がないといけないと考えるのか。

なぜ役者には演技してほしくないのか。

これらはまた時間があるときに書いていこうと思います。

今日は以上です。